master_heroの尋常かどうかわからない日常

ただの学生日記。日々あったことを凡人の感性で書いていく。 

夢をコントロール出来るようになった話。ー 無駄知識

明晰夢というものを聞いたことがあるだろうか。俺もつい最近インターネットで調べるまで聞いたことがなかった。

 

今回は何をしたら明晰夢を見られたのか書いていく。

 

ところで何故、明晰夢というものを調べたのかというと、過去数か月間の間に夢の中で夢を見ていることを自覚しているという経験をしたからだ。そしてさらに、自分の見ている夢をコントロールできたからだ。

 

俺は実際にこのようなことは起こりえるのか、それとも俺はただ単に「夢を見ている自分を自覚している」という夢を見たのかはっきりとさせたかった。そこで次のキーワードをGoogleに打ち込んでみた。

 

「夢、自覚、コントロール

 

検索に一番に引っかかったのはお馴染みのWikipedia。早速アクセスしてみる。

明晰夢の内容は見ている本人がある程度コントロールしたり、悪夢を自分の望む内容(厳密に言えば無意識的な夢と意識的な想像の中間的な状態)に変えたり、思い通りの事を(実現可能な範囲内で)覚醒時に体験したりすることが可能である。」(引用元:Wikipedia

 

 正直あまり大したことは載っていなかった。

とはいえ、この現象の名称が「明晰夢」ということが分かったのは一つ収穫であった。また、上に引用した文章は俺が体験した状況を比較的正確に表しているので、明晰夢で間違いないと確信できた。

 

残念ながらWikipediaにはどのようにしたら「明晰夢」を見られるのか明確な方法は記載されていなかったがまあ、夢には個人差があるので妥当なことだろう。

 

 Wikipedia以外にもいろいろと調べてみたが、なんか怪しい感じのウェブサイトが多かったので一旦諦めて自分なりに検証した明晰夢の見方」を紹介する。ちなみに、俺は無宗教だ、唯一信用しているのは科学である。ゆえに、先ずは物事を「疑って」見ることから始める。下に記したのは、俺の好奇心を満たすためだけにした実験の記録である。

 

と、色々ともったいぶってみたがやり方はごく簡単だ。ただし、まず一つ条件をクリアしておく必要がある。

 

その条件は、「耐え難い眠気がある状態」だ。睡魔に襲われているような状況でもいい。俺の経験からすると、集中力が切れてものすごく眠くなった時が一番効果的だった。

 

 この条件は色々は方法で達成できるはずだ。例えば、ぶっ通しで14時間勉強とかは手っ取り早い。

 

そして、睡魔に襲われたら横になる。この時重要なのが、必ず身体を動かさないで済むような体勢で横になること。仰向けがほとんどの場合において最適解だろう(うつ伏せはうまくいかなかった)。

 

さらにこの時枕元にテレビ、またはラジオでもかけておくとよい。理由は後述する。

 

さて、睡魔に襲われた(まぶたが落ちそうな)状態でラジオをかけ楽な体勢で横になったら、ここからが本題だ。

 

まず目を閉じる。そして、目をつむったまま絶対寝ないように睡魔に抗う。この時役に立つのがテレビまたはラジオの音だ。これらの音に意識を集中させ眠らないようにしていると、いつの間にか音が遠くから聞こえてくるように感じ始める。

 

また、繰り返しになるが絶対に身体を動かしてはいけない。なぜなら、少しでも身体を動かすと一瞬で意識が現実の世界に引き戻されてしまう。

 

そしてしばらくすると、目を閉じていたはずなのに視界がはっきりとしているのに気づく。あまりにもハッキリとしていて、実際に最初に明晰夢を見た時は起きてしまったのかと思ったほどだ。それほど現実と遜色ない。

 

この状態になるともう夢の中だ。そしてまだ意識を保てていれば、明晰夢を見ることに成功したことになる。

 

「なぜ俺は夢の中にいると自覚できているのだろう?」

「夢の中では何でもできるのだろうか」

 

最初に明晰夢を見た時は混乱した。また沢山の疑問も出てきた。

 

そこで二回目の時は、いろいろと検証してみることにした。

 

そのうちの一つが、計算だ。果たして夢の中ではハッキリと論理的思考ができるのだろうか。

 

これを検証するため、夢の中で関数電卓を思い浮かべ使ってみた。

 

その結果、分かったことは、

「現実の世界で出来ないことは夢の中でも実現は難しい」

ということ。

 

 一つ例を挙げると、暗算できる範囲の計算(四則演算)は夢の中でも普通にできたが、三角関数、対数などは駄目だった。ただし、計算速度は現実の世界よりも速かった(気がする)。

 

もう一つ驚いたことがある。それは、夢のなかでも物を触った感触があることだ。

普通に何でも触ったりできる。(これはまだまだ応用ができs略

 

 

とまあ今回はけっこう無駄なことを書いてしまった、、、

 

しかし、人間の脳は現在解明されているよりも遥かに高性能なものな気がする。

 

明晰夢を見るということは、ある意味頭の中に現実の模型を作るようなこと。

これはまだ現代科学でもできないことだ。

 

 

 

 

「私が勝った。」ー「えっ、私と競争か勝負でもしていたのですか???」

どうすれば不毛な議論を終わらせられるのだろう。

 

最近、とある知り合いと話をしたのだが、途中からなんだか意見が食い違ってきて相手が段々とこちらを言い負かそうとしているの見えてきた。

 

最初は俺も面白がって、「おっ、討論か。面白そうだな!」ってノリで相手していた。

しかし段々相手が絶対にこちらの意見を聞かずに、イライラし始めたのに気がついた。(ちょっと調子に乗って色々喋ったせいかも、、、)

 

そこで、この不毛な議論を終わらせるために、俺は落としどころを探してその話を終わらせた。(実際には相手が年齢的に遥かに上なのを考慮して、はっきりと決着をつけなかった)

 

まぁ、あまりすっきりとした感じはしなかったがあまり刺激しない方が今後のためにも良いかな、と思ったゆえの判断だった。

 

ところが、いきなり

 

相手:「私が勝った。」

 

と言ってきた。

 

俺:「!????」

 

えっ、そうくるの?争いたくなかったのに、、、

ちょっとビックリして咄嗟に、

 

俺:「えっ、私と競争か勝負でもしていたのですか???」

(意味:こちらは勝負しているつもりはありませんでしたよ。ただ普通に話をしていただけです。もしかして独り相撲では?)

 

と返してしまった。やってしまったorz

 

実際に意味が伝わったかどうかは分からないが、咄嗟に皮肉を言ってしまうのは自分の悪い癖だと思う。

 

今回の場合、最適解じゃないかもしれないけれど、「はぁ、そうですね」とか言っておけばよかったのかもしれない。

 

そうすれば、相手の機嫌を損ねないですむ。

 

が、同時に俺は相手によると「負け?」たことになる。

 

これは何だか正しい気がしない。

 

こういう場合、双方が納得できる終わり方があるのだろうか。

 

世の中の人々はどうしているのだろう。相手を優先するか、自分を優先するのか。

全然わからない。

 

誰か分かりますか。

 

 

 

 

 

 

 

褒美 vs めんどくさい

「激動の2020年も残すところあと1ヶ月。ここまで頑張った自分にご褒美をあげてみませんか? 」

 

ふと、作るだけ作って放って置いてあったはてなブログのアカウントを開いたら、こんなフレーズが目に飛び込んできた。

 

自分へのご褒美かぁ。

 

あまりはっきりと意識したことは無かったが、最近、旨いものが食べたくて夜目が冴えることが多々ある。一度目が覚めてしまうとスマホをいじりだしてしまい、余計に眠れなくなる。そしてそんな時に限って、ものすごく旨そうな料理の画像がTwitterで流れてくる。こんな画像は、空腹の最大の敵である。たった一枚の画像のおかげで、瀕死状態だ。はぁ~、、、

 

とそんなわけで、自分に何か美味しいものを買ってきて食べようとも思ったのだが、なんだかめんどくさい。。。やっぱり真の敵はTwitterで飯テロをしてくる誰かじゃなくて、自分の中にある怠惰な一面なんだと思う。

 

そこで何故、現時点より「良い状態」があるのに(買い物に行って美味しいものを食べられるのに)自分はそうしないのか、ということについて考察してみた。

 

まず、原因は言うまでもなく「めんどくさい」という感情である。

 一体何がそんなにめんどくさいのかというと、買い物に行って帰ってくるのが、家でダラダラと惰眠を貪るのに比べてめんどくさいのである。

 

 しかし、買い物に行けば、最終的に美味しいものを食べられてより「良い状態」になるはずだ。家でダラダラしていれば、腹は満たされず遥かに惨めな状態が継続されるのは間違いないだろう。だが俺はほとんどの場合、家で怠惰に過ごすことを迷いなく選ぶ。

 

なぜなら、「買い物に行く」という行為は時間と労力を必要とするからである。楽に(より良い状態)になる為に苦労するのでは本末転倒ではないか、と心のどこかで思ってしまうのである。

 

だがもしも、「買い物に行く」と百万円もらえるとしたらどうだろう。俺は間違いなく買い物をすることを選び、今までにないスピードで買い物を済ませるだろう。この場合、少しの労力を費やす「買い物に行く」ことについて「めんどくさい」などとは夢にも思わないはずだ。

 

上の二つの例には、たった一つの違いしかない。労力に対する報酬の比率である。

 

最初の例では、「美味しい食べ物」が買い物に行った報酬だったのに対し、二つ目の例では、百万円を報酬としてもらえた。

最初の例では、「めんどくさい」が「報酬」に勝り、二つ目の例では、「報酬」が「めんどくさい」を打ち消した。

 

このことから、「めんどくささ」は、ある一定の労力から得られる報酬に反比例していると考えられる。

 

しかし、労力と報酬の価値が等しいとき、俺はどのような行動をとるのかはわからなかった。また、労力と報酬の価値が等しくなる時の値の平均値を調べてみるのも面白そうだ。そして、どのような値が人々を一番幸せにするのかも興味深いトピックだ。

なぜなら、全てをめんどくさがっていたら、何も達成することはできないだろうし、逆に全てのことに手を付けていたら、すぐに手いっぱいになってしまうはずだ。

 

。。。。。

 

と、ちょっと自分なりに「めんどくささ」について考えてみた。

あまり大したことはわからなかったが、一つ分かったのは、人間(俺)は結構現金な奴だということだ。利があれば飛びつくし、なければ「めんどくさい」ですましてしまう。

 

「めんどくさい」と言わずに何でもできる人は、一体どれくらいいるのだろうか。

 

もしいたら、その人はどんな人なんだろう。人にいいようにこき使われているのか、または、聖人とでも呼ばれているのだろうか。

 

 

 

今週のお題「自分にご褒美」