master_heroの尋常かどうかわからない日常

ただの学生日記。日々あったことを凡人の感性で書いていく。 

褒美 vs めんどくさい

「激動の2020年も残すところあと1ヶ月。ここまで頑張った自分にご褒美をあげてみませんか? 」

 

ふと、作るだけ作って放って置いてあったはてなブログのアカウントを開いたら、こんなフレーズが目に飛び込んできた。

 

自分へのご褒美かぁ。

 

あまりはっきりと意識したことは無かったが、最近、旨いものが食べたくて夜目が冴えることが多々ある。一度目が覚めてしまうとスマホをいじりだしてしまい、余計に眠れなくなる。そしてそんな時に限って、ものすごく旨そうな料理の画像がTwitterで流れてくる。こんな画像は、空腹の最大の敵である。たった一枚の画像のおかげで、瀕死状態だ。はぁ~、、、

 

とそんなわけで、自分に何か美味しいものを買ってきて食べようとも思ったのだが、なんだかめんどくさい。。。やっぱり真の敵はTwitterで飯テロをしてくる誰かじゃなくて、自分の中にある怠惰な一面なんだと思う。

 

そこで何故、現時点より「良い状態」があるのに(買い物に行って美味しいものを食べられるのに)自分はそうしないのか、ということについて考察してみた。

 

まず、原因は言うまでもなく「めんどくさい」という感情である。

 一体何がそんなにめんどくさいのかというと、買い物に行って帰ってくるのが、家でダラダラと惰眠を貪るのに比べてめんどくさいのである。

 

 しかし、買い物に行けば、最終的に美味しいものを食べられてより「良い状態」になるはずだ。家でダラダラしていれば、腹は満たされず遥かに惨めな状態が継続されるのは間違いないだろう。だが俺はほとんどの場合、家で怠惰に過ごすことを迷いなく選ぶ。

 

なぜなら、「買い物に行く」という行為は時間と労力を必要とするからである。楽に(より良い状態)になる為に苦労するのでは本末転倒ではないか、と心のどこかで思ってしまうのである。

 

だがもしも、「買い物に行く」と百万円もらえるとしたらどうだろう。俺は間違いなく買い物をすることを選び、今までにないスピードで買い物を済ませるだろう。この場合、少しの労力を費やす「買い物に行く」ことについて「めんどくさい」などとは夢にも思わないはずだ。

 

上の二つの例には、たった一つの違いしかない。労力に対する報酬の比率である。

 

最初の例では、「美味しい食べ物」が買い物に行った報酬だったのに対し、二つ目の例では、百万円を報酬としてもらえた。

最初の例では、「めんどくさい」が「報酬」に勝り、二つ目の例では、「報酬」が「めんどくさい」を打ち消した。

 

このことから、「めんどくささ」は、ある一定の労力から得られる報酬に反比例していると考えられる。

 

しかし、労力と報酬の価値が等しいとき、俺はどのような行動をとるのかはわからなかった。また、労力と報酬の価値が等しくなる時の値の平均値を調べてみるのも面白そうだ。そして、どのような値が人々を一番幸せにするのかも興味深いトピックだ。

なぜなら、全てをめんどくさがっていたら、何も達成することはできないだろうし、逆に全てのことに手を付けていたら、すぐに手いっぱいになってしまうはずだ。

 

。。。。。

 

と、ちょっと自分なりに「めんどくささ」について考えてみた。

あまり大したことはわからなかったが、一つ分かったのは、人間(俺)は結構現金な奴だということだ。利があれば飛びつくし、なければ「めんどくさい」ですましてしまう。

 

「めんどくさい」と言わずに何でもできる人は、一体どれくらいいるのだろうか。

 

もしいたら、その人はどんな人なんだろう。人にいいようにこき使われているのか、または、聖人とでも呼ばれているのだろうか。

 

 

 

今週のお題「自分にご褒美」